釣った魚には餌をやれ。
2001.03.29 Thursday
“釣った魚には餌をやらない”という言葉がありますね。恋人同士だった頃はやさしかった彼が、結婚を境に手のひらをかえしたように冷たくなったりして。ああいうの、女性の立場からすると「だまされた」ってことになります(笑)。男性のご意見は? え?「結婚してまでチヤホヤできるか。俺は一家の柱で、家ではくつろぎたいんだ」。……ナルホド。
「いや、僕はちがうよ」職場の上司Oさんが言いました。「僕は餌をどっさりあげる」
どういうことでしょう? 詳しく教えてください。
「だってさ、結婚前の段階って、魚に食い逃げされるってことがあるわけじゃない? それより結婚したら食い逃げはないし。餌をあげただけ、こっちにいろいろしてくれるもの。餌が少ないと離婚されちゃうよ」……ナルホド。
それはいい考えだ、と最近結婚したI君(チヤホヤしてない)にこの話をしたら。I君、苦笑しながら答えました。
「いや〜、僕のほうが釣られたんですよ」
「いや、僕はちがうよ」職場の上司Oさんが言いました。「僕は餌をどっさりあげる」
どういうことでしょう? 詳しく教えてください。
「だってさ、結婚前の段階って、魚に食い逃げされるってことがあるわけじゃない? それより結婚したら食い逃げはないし。餌をあげただけ、こっちにいろいろしてくれるもの。餌が少ないと離婚されちゃうよ」……ナルホド。
それはいい考えだ、と最近結婚したI君(チヤホヤしてない)にこの話をしたら。I君、苦笑しながら答えました。
「いや〜、僕のほうが釣られたんですよ」
金子みすゞの世界展 (2)
2001.03.28 Wednesday
童謡を書くのが好きな娘だった。同じ趣味の年下の男性と、一緒に音楽などについて語りあった。楽しかった。なのに、一体どこで運命が狂ってしまったのだろう……?
正祐の、みすゞの結婚に反対する手紙がありました。結婚したみすゞから正祐へ送った手紙もありました。娘のしゃべった言葉を集めたメモがありました。死を予感させる詩がありました。
ままならぬ人生を歩いた女性の遺品の数々に、会場を訪れた人たちはくいいるように見つめていました。
出口付近に、手帳が3冊、並んでいました。512編の遺稿が書かれたそれは、みすゞが死ぬ前に正祐に託し、矢崎節夫氏が16年の歳月をかけて探し求めたものでした。深く心をゆさぶられました。「これがその……」。すでにボロボロになっている手帳は、保存のため、今期で展示をやめる予定だそうです。
皆さんの町に展示会が来たとき、ぜひこの手帳をご覧になってください。
正祐の、みすゞの結婚に反対する手紙がありました。結婚したみすゞから正祐へ送った手紙もありました。娘のしゃべった言葉を集めたメモがありました。死を予感させる詩がありました。
ままならぬ人生を歩いた女性の遺品の数々に、会場を訪れた人たちはくいいるように見つめていました。
出口付近に、手帳が3冊、並んでいました。512編の遺稿が書かれたそれは、みすゞが死ぬ前に正祐に託し、矢崎節夫氏が16年の歳月をかけて探し求めたものでした。深く心をゆさぶられました。「これがその……」。すでにボロボロになっている手帳は、保存のため、今期で展示をやめる予定だそうです。
皆さんの町に展示会が来たとき、ぜひこの手帳をご覧になってください。
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金子みすゞの世界展 (1)
2001.03.27 Tuesday
3/15、横浜 高島屋にて
「金子みすゞの世界展」へ行ってきました。会場のガラス棚には、当時の雑誌や資料などが並んでいました。壁には彼女の代表的な詩と、それにまつわる場所や人物のパネルがかかげられ、一角には、彼女が働いていた書店を再現したセットもありました。私はゆっくりと会場をまわっていきました。
本人や家族の写真は、すでに雑誌などで目にしていましたが、生写真は初めてでした。昔の人々の息づかいを感じました。
セピアに退色した写真の中で、ここではないどこかを見つめている若いみすゞがいました。側には、そこで着ていた着物(と同柄)のはぎれがありました。縞の袖をはためかせながら歩くみすゞの姿を思いうかべ、ふと、彼女が今ここにいるような錯覚をおぼえました。
彼女はもう過去の作家ではなく、私に喜びや悲しみを語りかけてくる一人の女性でした。
「金子みすゞの世界展」へ行ってきました。会場のガラス棚には、当時の雑誌や資料などが並んでいました。壁には彼女の代表的な詩と、それにまつわる場所や人物のパネルがかかげられ、一角には、彼女が働いていた書店を再現したセットもありました。私はゆっくりと会場をまわっていきました。
本人や家族の写真は、すでに雑誌などで目にしていましたが、生写真は初めてでした。昔の人々の息づかいを感じました。
セピアに退色した写真の中で、ここではないどこかを見つめている若いみすゞがいました。側には、そこで着ていた着物(と同柄)のはぎれがありました。縞の袖をはためかせながら歩くみすゞの姿を思いうかべ、ふと、彼女が今ここにいるような錯覚をおぼえました。
彼女はもう過去の作家ではなく、私に喜びや悲しみを語りかけてくる一人の女性でした。
金子みすゞという人 (2)
2001.03.26 Monday
みすゞの結婚に反対し、彼女が実姉だと知った正祐は家出。東京へ去りました。(「映画現代」編集部や、劇団若草に。「おつかいは自転車にのって」の作詞者です)
不幸な結婚だったようです。結婚後は、童謡を書くことを禁じられ、夫は遊蕩でほとんど家に帰らず、みすゞは病がちになりました。
26歳のとき、離婚が決まりました。が、それは娘を相手に渡すというのが条件でした。親権は男性のほうにあったのが昔です。子供をひきとりに来るという前日、みすゞは服毒自殺をしました。
時代が彼女を殺した、というのが後世の研究家の一致する意見です。
その後昭和57年に、児童文学者の矢崎節夫さんが、正祐氏が保管していた3冊の遺稿集を発見するまで、金子みすゞの名は約半世紀のあいだ忘れ去られていました。
不幸な結婚だったようです。結婚後は、童謡を書くことを禁じられ、夫は遊蕩でほとんど家に帰らず、みすゞは病がちになりました。
26歳のとき、離婚が決まりました。が、それは娘を相手に渡すというのが条件でした。親権は男性のほうにあったのが昔です。子供をひきとりに来るという前日、みすゞは服毒自殺をしました。
時代が彼女を殺した、というのが後世の研究家の一致する意見です。
その後昭和57年に、児童文学者の矢崎節夫さんが、正祐氏が保管していた3冊の遺稿集を発見するまで、金子みすゞの名は約半世紀のあいだ忘れ去られていました。
金子みすゞという人 (1)
2001.03.23 Friday
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい
(「私と小鳥と鈴と」より)
将来を期待された童謡詩人、金子みすゞは、昭和5年、自らの命を絶ちました。26歳でした。
西條八十に見出され、生きていたら日本の童謡史が変わっていたかもしれないとまで言われた金子みすゞ。しかし彼女の生きた道は平坦ではありませんでした。
明治36年、山口県長門市仙崎に生まれたみすゞ(本名テル)は、3歳のときに父を亡くします。16歳のとき母が再婚。嫁ぎ先の書店(上山文英堂書店)には、幼少のころに養子に出されていた弟、雅輔(本名正祐)がいました。芸術的な感性の近いみすゞと正祐は親しくなります。それが恋愛に近いものに発展していったことは自然のなりゆきだったろうと思います。同時にまた、それを避けようとする周囲の態度も仕方のないこと。23歳のときみすゞは、周囲の勧めにより、店に勤めていた男と結婚をします。
みんなちがって、みんないい
(「私と小鳥と鈴と」より)
将来を期待された童謡詩人、金子みすゞは、昭和5年、自らの命を絶ちました。26歳でした。
西條八十に見出され、生きていたら日本の童謡史が変わっていたかもしれないとまで言われた金子みすゞ。しかし彼女の生きた道は平坦ではありませんでした。
明治36年、山口県長門市仙崎に生まれたみすゞ(本名テル)は、3歳のときに父を亡くします。16歳のとき母が再婚。嫁ぎ先の書店(上山文英堂書店)には、幼少のころに養子に出されていた弟、雅輔(本名正祐)がいました。芸術的な感性の近いみすゞと正祐は親しくなります。それが恋愛に近いものに発展していったことは自然のなりゆきだったろうと思います。同時にまた、それを避けようとする周囲の態度も仕方のないこと。23歳のときみすゞは、周囲の勧めにより、店に勤めていた男と結婚をします。